The Grameen Bank
バングラデシュは、長い間洪水や飢餓に苦しんできた国でした。何世代にもわたり、人々は貧しい生活をするよう強いられてきました。もしバングラデシュの人々がほんのわずかの貸付金さえ得られれば、彼らはより良い人生への道を始めることが出来るだろうに。彼らは鶏や牛を育てることも出来るだろうし、ミシンを買って衣類を作ることが出来るだろうに。しかし、貧しい人々にお金を貸してくれる銀行は無いでしょう。
Dr.Muhammad Yunus(ドクタームハンマド・ユーナス)は、この問題を解決しようと決心しました。彼は貧しい人々、特に村に住んでいる女性達に少しの貸付金を与えるために、
Grameen Bank(グラミンバンク)という
ユニークな(=他に類を見ない)組織を作りました。今夜、ドクターユーナスが、私達にどうやって“マイクロクレジット”という、このシステムを始めたか話してくれます。
<Section1>
バングラデシュがパキスタンから独立した翌年の1972年に私は自国に戻り、
Chittagong University(チタゴーン大学)の経済学部の学部長になりました。皆、生活水準は改善するだろうと思いましたが、私達が皆驚いたことに、バングラデシュ(経済)はとても急速に
滑り落ち(=下降し)始めました。1974年には私達は恐ろしい飢餓にあい、人々は通りで死にかけていました。
私は、私が教えていた事にとても挫折感を抱きました。教室では、経済学論は正しく全ての事は上手くいっていると思われました。そしてあなたは大学構内から歩いて出ると、現実の世界はとても違っていると分かるのです。物事は全く上手くいっていないのです。私にとって教室から町の現実世界に行くことは、映画館から出て行くようなものでした。映画の中では全ての事が秩序だっています。あなたはヒーローが勝つことを期待し、そして結局ヒーローは勝つのです。しかし劇場から外へ出ると、つまり教室から出て貧しい通りに行くと、あなたは現実の世界はとても違うと分かるのです。全ての人が負け、誰も勝ってはいないのです。
「もし私が私の教えている事を信じなければ、経済学を教える事は何の役に立つのでしょう。もし私の教えている事の価値を私が信じなければ、
私はどうやって生徒達にそれを信じるよう求められるでしょう。(嫌、求められはしないでしょう。:反語」と、私は思いました。
だから私は、現実の世界の経済学を学ぼうと決めました。私の先生はバングラデシュの貧しい人々でした。チタゴーン大学のキャンパスの周りには沢山の村があるので、私は現実の世界の経済学を学ぶには、大学構内から外に出て村の中に入って行きさえすれば良かったのです。私は、村のとても貧しい人々と話をすることを選びました。なぜならそこに問題があるからです。なぜ彼らは生活を変えられないのでしょうか。なぜ彼らは生活を改善出来ないのでしょうか。私は経済学者としてではなく、教師としてでもなく、調査員としてでもない単なる人間として、隣人として話し、質問し続けました。どうして
物事はそのままなのでしょうか。(→事態は現状のままなのでしょうか。)
<Section2>
ある日私は、竹の腰掛けを作って一日につきたったの2ペニーしか稼げない女性に出会いました。私は一体どうすればそんなに熱心に働いて、そんなに少ししか稼げないのか理解出来ませんでした。彼女は説明しました。彼女は腰掛けを作るための竹を買う金を持っていなかったので、商人から金を借りなければいけませんでした。そして商人はその腰掛けをとても安い値段で買い、貸付金の費用を差し引いて、彼女に一日の仕事で2ペニーしか残しませんでした。彼女の仕事はほとんどタダ同然でした。彼女は奴隷のようでした。
これはとても単純な問題のように思われました。このような問題を解決するための大げさな理論は必要ありません。この女性が自分の竹を買えるだけのほんの少しの金を利用出来るようにしてやるだけで良いのです。そうすれば、彼女は高い値段をつけられる所で腰掛けを売ることが出来ます。私は、商人から金を借りていて、儲けるべき金を得ていない人々が他にいるかどうか確かめるために数日間、私の生徒達を連れて村の辺りに行きました。一週間で私達はそのような人々42人のリストが出来上がりました。彼ら42人全員が必要としている金は全部でたったの30ドルでした。
私は恥ずかしく思いました。私が教室で話していたあの大そうな理論の全てが何の役に立つのでしょうか。
30ドルが42人の人々が生活するために賃金を稼げるようにする(→30ドルあれば42人の人々が生活費を稼げる)現実の生活状況がありました。しかし私達の社会は、個人と小さな仕事にそういった種類の少しの貸付金を与えることが出来ませんでした。私はこういった事をするのに何か方法があるに違いないと考え、銀行員に会いに行きました。私が42人の貧しい働き手への30ドルの融資のことを話すと、彼は笑いました。彼はおかしな考えだと思ったのです。「私達は貧しい人々に金を貸すことは出来ません。」と、彼は言いました。私はどうして出来ないのか尋ねました。「なぜなら融資を受けるためには担保が無ければいけないからです。融資を返済出来る事を証明するために、自分の金か土地を持っていなければいけません。あるいは、信用度格付けが高くないといけません。つまり、以前に借金を返済している事を示さなければならないのです。」「でもこの人達は貧しい人達なのです。」と、私は言いました。「金は無いし土地は無いし、あなた達が金を貸さないから、返さなければいけない借金をした事もありません。」彼はまた笑いました。
<Section3>
私は他の銀行にも話をしましたが、結果は同じでした。1979年、とうとう私は一人で何とかしようと決心しました。私は自分名義で少しの借金をして、その金を村の貧しい人々に貸し始めました。これこそが私が現在している事の始まりなのです。
私は銀行から金を引き出しましたが、もちろんその金は返済しなければなりませんでした。村の人達が私にちゃんと金を返すことが重要で、そうすることで私も銀行に返済出来たのです。実際に人々は私が貸した金を返済してくれたから私はもっと金を借りて、貧しい村人達にもっと金を貸すことが出来ました。このシステムはどんどん大きくなりました。そこで私は銀行に言いました。「あなた達自身でやったらどうですか?どうして保証人として私が必要なのですか。あれは上手くいっています。あなたは人々は金を返さないだろうと言いましたよね。彼らは返しています。」銀行員は言いました。「いや、一つの村だからやっていけるのです。あたなは
学生(→アシスタント)も連れているし、あなた自身が一生懸命働いてもいますが、私達がやったら上手くいかないでしょう。」「それはおかしいです。」と、私は言いました。「もし2ヶ所以上の村でやったら上手くいかないでしょうね。」と、彼らは言いました。「いいでしょう。私がやってみます。」と、私は言いました。私は他のいくつかの村でやってみました。上手くいきましたが、銀行はまだ満足しませんでした。「この大きさではまだ不十分です。」と、彼らは言いました。私はその地域全体でやりましたが、上手くいきました。しかし銀行は決して説得できませんでした。そこで私は考えました。「どうして私は銀行の後を追いかけているのだろう。自分で銀行を設立して、問題を解決したらどうだろう。」
私は貧しい人々専用の銀行を設立する許可を得るため、中央銀行や政府の役所を奔走し始めました。それには長い時間がかかりました。1983年、ついに政府は私達に独立した銀行を設立する事を許可しました。グラミンバンクはこうして出来たのです。
グラミンバンク、この貧しい人々向けの銀行は大きく発展してきて、ついに250万人の会員を抱える現在までになりました。そしてその94%は女性です。私達は23億ドルを融資しています。マイクロクレジットの方法は、アメリカやフランスを始めとする60近くの国々で用いられてきています。その成功によって、1997年にアメリカでマイクロクレジットサミットを開くために137もの国を呼び集めることが出来たのです。

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