表現者としての作者において、デッサンがますます必要と言うなら、鑑賞者の側にも必要だと思います。与えられた空間をありのままの空間として認識できる鑑賞者が増えてくれないと、折角の創造も表現も虚しいことになります。セザンヌもピカソもこのような空間認識力抜きでは本当の意味での鑑賞は出来ません。
誰に気兼ねすることもなく「良いものは良い」と自分独自の判断を下せる鑑賞者の少なさが、この国の美術に低迷と国際的な水準と比べての質の低さの大元だと思います。鑑賞者としてのデッサンも必要だと思います。
以上書いてきたようなもろもろのことから、私はデッサンを失うことは「人類にとって不幸なことだ」と思いますし、「デッサンをする人が増えればそれだけ世の中が精神的に豊かになる」と思います。もちろんこの国の美術文化は大幅に成長するでしょう。私が抽象表現的な作品を描きながら、同時にデッサンの会を主催し、自身でも人体デッサンを続けしばしば海や山のスケッチに出かけたりするのも、このような気持ちからです。決してパン絵(売り絵)として描写絵画をやっているのではないのです。
しかしまた描写によって自然のからくりを深く探り、空間に対する鋭い感覚を身につけたならば、単なる表面的な描写に飽き足らなくなるのも当然の成り行きだと思います。デッサンや描写によって身につけたものを生かして、新たな空間の創造なり視覚的な言語による思想や感情の表現なりに進むべきでしょう。

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