研ぎ澄まされた感覚を持って生きることは、それだけ充実した感覚世界に生きることでもあるはずです。ゴッホほどではなくても、日々の日常生活の中にもちょっとした光や色彩や形の、そしてそれらの動きや変化の中にあり一瞬の美しさに気付くことが出来ることと、それらの感動を大事にしようと言う気持ちを持てることは、人生の重みをずいぶん深めてくれるのではないでしょうか。
この辺りは結局は主観的な問題で、気の持ちようということにもなる訳ですが、今ひとつ別の視点に立って考えて見ましょう。
今や時代の流れの中で、デッサンが軽視されるようになりついには失われてしまうとしたら、それは人類にとっての不幸ではないかと言うことです。デジカメなどの映像機器が発達し、コピーやコンピューターを駆使すれば、いくらでもありのままの形や既成の形を自分の作品に取り込めるようになって来ています。デザインやイラストの世界は既にそれらの映像の合成の技術の問題になりつつある観がありますし、描き写すにしても、ものを見るのではなくて写真を見て写すのが当たり前になってきています。ものの形を直接描写すると言う必要がなくなってきているのです。
デザインの世界ばかりか絵画や彫刻の領域でも、現代美術の展覧会に行ってみればわかりますが、具象絵画の殆どが映像からの透き写しかそれに手を加えたもので、大きなもののなかにはプロジェクターや大型のプリンターを使って引き写したものもあります。ですから何を苦労して実物を描写する必要があるのかと思われても仕方がありません。
デッサンが描写の技術のためだけのものと考えればです。
実に便利であり、これからもますます便利になって行くでしょう。しかし便利になることがすなわち人類の幸福につながるという考え方は、そろそろ過去のものになって来ているのではないですか。環境問題などから考えても便利になることでかえって不幸になるのではないかという不安が増大してきていて、少なくとも便利になることと幸せになることは別の問題であると言うことに、人々は気付いて来ているのではないでしょうか。

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