論理破綻と当事者  映画



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昨日は遅番だったが、私の影響を受けて同じ趣味の旧友が渡したいと思う物があると言うので新居を

訪ねる名目でやっては来たのだが、そこで持って来たのがレコードだった。それは2組だったが、1組は

私が既に所有している物だった。だがそれは商品番号が同一だが、ジャケットと原盤番号が違うと言う

代物だった。それで聴き比べると音も違う。そこで改めて旧友と共にレコードの奥深さを知る事となった

のだが、この趣味は、そう言う処が面白い。しかしながら旧友も、すっかりとレコードに填まったようだ。

なので近況もそうだった。それでもう1組のレコードは、R・ワーグナーの歌劇「タンホイザー」なのだが

録音された年代は、東西冷戦時代の東ベルリンの国立歌劇場でのもの。然もその指揮は、生前酒豪

と知られ、酩酊状態で「難曲」を振った武勇伝を残す、フランツ・コンヴィチュニーである。 そして風貌も

アンクルトリスに似ているので「もしやそのモデル?」と酒好きの音楽ファンからは囁かれた指揮者だ。

そしてそのレコードは、旧友と遅い時間だったが触りを試聴したのだが如何にも「ドイツ的」な底光りの

する安定感のある演奏で素晴らしかった。 休日の楽しみが増えた。盤面も綺麗だった。感謝である。

このお話は、とてもカトリックの色合いが深い作品で知られてはいるが、快楽を通じた人間の性を描い

ている。 その結末は戒めと救済なのだが、人間とは弱い生き物だ。 そんな事を思う深い歌劇である。


そこでこのニュースだが、朝日新聞が慰安婦報道の内容を長年検証しなかった為に「知る権利」を侵害

されたとして、市民 400人余りが同社に1人1万円の損害賠償を求めた訴訟の第1回口頭弁論が15日に

東京地裁であったが、朝日新聞は「記事が正確でなければ、読者や全国民に賠償責任を負うとの主張

は不適切だ」として請求棄却を求めている。 その訴状では、故吉田清治氏の証言に基づく記事の信憑

性が、1992年当時にも既に疑われていたとして「すぐに検証せず、読者が真実を知る権利を侵害した」

と主張をした。しかし朝日側は「過去の報道が誤っていたと紙面で明らかにすべき場合はあるが、法的

義務はない」と反論している。尚慰安婦報道に対して大学教授らのグループも「誤った事実を国際社会

に広め、国民の人格権を傷つけた」として朝日側に慰謝料等を求めたが、この問題に具体性を示す上

では効果的な訴訟だと思うが如何なものだろう?それにしても道義的な観点から言えば、報道機関が

「それを言っちゃあおしまいよ」だと思う。 これでは単なる開き直りで、それによって失われた国益に対

しては何の責務がないとするのは間違いだろう。 本来は「外患誘致罪」相当事案である。そこが論点。


これも当事者の記事だが、BS日テレの「深層News」では、櫻井よしこ氏と福島瑞穂氏が、所謂従軍慰

安婦問題とされた事案について話し合ったのだが、取材をしていた筈の福島氏が次々と「論破」された。

此処ではそれを文字に起こして紹介するが、福島氏の情報の根拠が如何に偏向されたものかが解る。


櫻井「一国の首相の発言が20年前30年前と同じである筈が無い。国際社会の変動に対応出来なければ
資質が疑われる」「過去の謝罪を求めているのは今アジアで中韓だけ。歴史問題を中韓は政治イシュー
にしている。 未来永劫突きつけていくつもりでいる。」 「日本が謝って本当に収まるのか。これまで天皇
陛下から首相まで60回以上謝ってきた。慰安婦問題も、強制性を認めたらもう持ち出さないとの韓国提案
を信じて文言を入れたらそれを利用し補償を言い出した。」

福島「解決するしないではない。まずは謝るのが大事」

櫻井「福島氏は河野談話の前に慰安婦16人に聞き取りしたが、その時強制連行だったと言う
    証言はあったのか?」

福島「・・・今言われてもメモを見ているわけではないので。河野談話の中に」

櫻井「それは別儀。貴女が聞いたのでは」

福島「私はオブザーバだっただけ・・・」

櫻井「でもその時に強制連行と言う話を聞いたのか」

福島「全員には聞いていない。途中で帰ったから。強制はあったと思います」

櫻井「金学順裁判に強制連行の事は入ってないが強制があったなら何故言わなか
   ったのか?」

福島「え・・・・・さ・・・最後に連れて行かれる時に公務員か官憲だった、と言っていたと思う。
   逆に聞きたい。櫻井さんは取材した事があるのか?」


との内容だが、福島氏は必死に論点をすり替えようとしてるのが解る。そして姑息に逃げようとしている。

然も取材した本人が、櫻井氏の質問に答えられない。その点から福島氏自身が何かを隠している事が

示唆出来るのだが如何なものか?これでは「捏造」とされても仕方がない。氏も外患誘致罪に値する。



朝日新聞が慰安婦報道訴訟で反論「賠償責任ない」
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150515/dms1505151539014-n1.htm
福島みずほが慰安婦問題のウソを指摘され 沈 黙 
http://www.news-us.jp/article/419040840.html
谷山雄二朗氏による講演『慰安婦の真実 in ワシントン』
http://www.honmotakeshi.com/archives/44729956.html
【ケント・ギルバート】南京大虐殺、慰安婦強制連行…米国は史実無視の『反日プロパガンダ工作機関』を取り締まるべきだ
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150516/dms1505161000004-n1.htm
岡田氏「自衛隊が世界に展開したら日本の守りが手薄になるじゃないか。集団的自衛権は危険だ」
http://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000050560.html
【広島】台湾の元少年工ら40人が来日「日本で『お国のために』と誇りを持って働いた」「当時は同じ日本人として支えあった」 日本人元工員と共に「君が代」歌う
http://www.yomiuri.co.jp/local/hiroshima/news/20150514-OYTNT50257.html



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民主党の岡田代表は、BS朝日の番組に出演した際、20日の党首討論を前に安倍政権が進める安全保

障法制についての批判をしたのだが、その意見は自身で勝手に論理破綻をする内容だった。岡田氏曰く

「国会でのきちんとした議論を前提としていないんじゃないか。時間がきたら通すぞと、強行採決してでも

ですね。国民の理解なんか求めなくてもいいんだと受け取られかねない」としたが、それでは日本周辺の

安全保障環境が厳しさを増すなかで、 安保法制によって 自衛隊の活動範囲を世界全体に広げた場合、

限られた人員や予算で日本を守る事が出来るのかと述べている。更に集団的自衛権の行使は 「危険で

あり、必要ない」として、「個別的自衛権で十分、対応出来る」と強調したのだが、これでは批判にすらなっ

てはいない。そもそも「集団的自衛権」は自国の防衛が手薄になるのを補う為にある。もしや個別的自衛

権と意味合いを反対に解釈をしているのか?それに岡田氏の言い分では結局徴兵制が必要となるのだ。

つまり兵隊が足りないと言っている。その矛盾を解ってるのかと思ってしまう。そんなに戦争がしたいか?


 それとこれは日本統治時代の台湾の現状が伺える記事だが、太平洋戦争の末期に国内各地の軍需工

場「海軍工廠」で働いた台湾人元少年工等、約40人が来日し、14日に呉市内で日本人の元工員らと交流

したのだが、その台湾の元少年工達は、日本を「第二の古里」と呼んでおり、戦後70年が経過した現在で

は久々に来日した人も多い。その交流会では日本側関係者と戦没者を慰霊して平和を願い「台湾と日本

いつまでも手を携えて」と誓い合ったと言うのだが、ありがたいものだ。 台湾からの少年工は1943年5月

以降に延べ、 8400人余りが神奈川県の高座海軍工廠(座間、海老名両市) に集められて戦闘機生産に

従事をした。 彼等は名古屋市や群馬県等にも派遣された人も居たが、県内では呉市の「広第11海軍航

空廠」で約200人が働いた。今回は同航空廠で働いた元少年工とその家族達が、同窓会「台湾高座会」の

活動として来日をした。そこである台北市の男性は、43年に16歳で来日をしたのだが、高座での訓練後は

同航空廠で約半年間、攻撃機「一式陸攻」等を生産したとの事だ。 その頃の感想として、「台湾に比べ、

とにかく呉は寒かった。食料はいつも足りなかったが、日本人と分け隔てなく、みんなで朝から晩まで懸命

に働いた。活気があった」と振り返っている。 元少年工達は、 台湾の日本統治時代には「日本人」として

少年期を過ごした。台北市の宋燈山さん(87)は「少年工の募集にクラスの半分位が手を上げたが、トップ

の成績でないと選抜試験に通らなかった。日本で『お国のために』と誇りを持って働いた」と語る。日台交

流に努める台湾高座会の総会長・李雪峰さん(88)も「当時は苦しい生活だったが、同じ『日本人』として支

え合った。 今後も助け合えたら」と願っていたとの事だ。 だがこれが普通の感覚なんだろうなと思った。


戦時中に日本が関わった国には、親日の人が多いのだが、そこに当時の日本政府の感覚を垣間見る事

が出来る。つまり「統治=植民地」の感覚がなく、何の分け隔てなく共存する姿勢が見えるのだ。でなけれ

ばインフラ整備すらもしないだろう。しかし欧米列強国の感覚では摂取のみが最大の目的となってしまう。

それこそ植民地である。なので共存共栄の意識もないので、その国の人民は、単に資源摂取の為の奴隷

に成り下がる。これは根本的な感覚の違いだ。なので戦時中の人権意識について、それらの国が日本を

糾弾する事自体がナンセンスなのだ。だが最近は、その辺の日本に対するプロパガンダも化けの皮が剥

がれてきた。それは特亜の近代史に疑問を持った世界の有識者達のおかげでもあるのだが、そこに日本

のマスコミの異常性を感じる事となる。然もそれらの事は「スヒョン文書」に、その現状が暴露されている。

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オリジナルとは?  映画



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 どうも最近の休日は忙しく、何かと落ち着かない。それもあるのかレコードすら聴かないが、映画は

観る。先日に「スター・ウォーズ」旧三部作特別篇のDVDを購入した事は述べたが、全作見終わって

感じたのは、やはり改編箇所が不自然だと言う事。つまりオリジナルの段階で削られた箇所は当たり

前だが必要はなかった。そんな印象だ。それで更に最近発売されたブルーレイでは改編されていると

言うのでルーカスは、「改編病にでも掛かったのか?」と呆れる他はない。ではオリジナルの意義とは

何なのかと言う事だが映画では「初号プリント」としての意義がある。然もそれは制作スタッフへの権

利でもある訳だが、製作時の苦労は形として残ってこそ報われる。だから特別篇の公開時でも批判

があったのだが、オリジナルが存在してこそ、改編の意味もある。だがそれすらも否定するルーカス

には監督としての権限はない。その辺をすっかり履き違えている。現に当シリーズは最初のものしか

監督をしてはいないのだ。なので敢えて権限を主張をするのならば、1977年公開のそれしか改編

をする権限はなく、自身で監督した作品なれば、どう気に入らない箇所を改編しようが勝手なのだ。


しかし自身が制作でしか関わらず、他監督へ外注したものは話が別だ。それはルーカスが演出した

訳でもないからだ。なのでそれを改編するのは、実際に監督をした者への冒涜に他ならないとは思

うのだが如何なものだろう?私見としては、1980年公開の「帝国の逆襲」が、シリーズ中では最高

傑作だと評価をしてるのだが、あのドラマチックな演出は、「アーヴィン・カーシュナー」監督の才能が

あればこそなのだ。即ちそれが最終版だ。「ジュダイの復讐」もそうだが、自ら監督をしていない作品

については、ルーカスが、勝手に改編する権限はない。確かにこの人は映画界の「改革者」としては

評価は出来るが、今では単に権力者に成り下がってしまった。勿体ないのは映画監督としても、まだ

現役の年齢なのに過去の栄光にすがる人になってしまった。それに現在は、映画監督としても休業

と言うより殆ど廃業状態だ。正直「スター・ウォーズ」以外にも、この人らしい作品を観てみたかった。

それが返す返す残念だ。あれでは自ら可能性を否定したようなものだ。映画人としては過去の人だ。


本当は、この話から別の本題に移ろうと思ったが、つい筆(指先)が進んでしまった。特別篇ではない

オリジナル版のDVDが欲しい。だがルーカスは、旧版のプリントからのDVD化を否定し続けている。

これは彼のエゴで、ファンの気持ちを裏切るものだ。ルーカスには悪いが、あの作品は既に古典だ。

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一スジ、ニヌケ、三ドウサ  映画



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 さて巷のゴールデン・ウィークも後半である。取り上げるネタも無い訳でもないのだが、現在進行形

のものは、経緯位しか無く、停滞気味のものはキリがないので「敢えて」と言うものは無い。それでも

このブログについては「日課」である。だから更新しないと落ち着かないのだ。だからこれは「独り言」

に過ぎない。あの件も、この件も散々取り上げたので、たまに休息も必要だ。これは思い出話しだが

TBSには「月曜ロードショー」と言う、映画番組が在った。DVDやホーム・シアターが、普及した現在

では、過去となった番組だが、各局、名の在る映画評論家を解説者として起用をして、存在感を示し

たものである。当番組の解説者は荻昌弘さんだった。これは洋画中心のものだったが、たまに邦画

の企画も在り、日本の映画会社の歴史も取り上げた事もある。最近の日本映画は制作会社企画の

ものが極度に減少しているせいで、テレビ局や芸能事務所主体のものばかりだ。企画力の衰退が

そのまま日本映画の衰退に繋がってるのは残念な事だ。邦画の興行収入は、1959年がピークで

あった。丁度その頃に制作された記録映画に「日本映画史」と言うものが在る。これは松竹映画制

作だが、沿革から観ても映像に「存在感」が在るのだ。その安定感こそが、正に映画と言うべきか?



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「一筋、ニヌケ、三動作」とは、よく言ったものである。その理屈だと、現在の映画は「ヌケ」だけでは

ないだろうか?映像が綺麗でも内容が伴わなければ、所詮、元の木阿弥なのだ。鍵は此処に在る。

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