謙虚と言うもの  独り言



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芸術家の岡本太郎氏が生前、こんな事を言っていた。「謙虚と言うものは、人の前で、おのれを無にするとか低く見せる事では絶対にない。寧ろ自分の責任において、おのれを主張する事だ。つまり、謙虚は権力とか他人に対してではなくて、自分自身に対してこそ、そうあらねばならないんだね」と。これも言わんとしている事は解る。現代人は、その「責任」が足りないと思う。これも欧米思想の間違った模倣が原因だ。どうも昔は海外の教えの方が優秀だと捉える傾向にあり、それが土地柄、その国家であれば必要なものなのだが、それこそ十羽一絡げで比較もせずに妄信的に「日本もそんな思想が必要だ」と訳も解らないのに取り入れた結果が組織で責任者不在となる事例を作っているようにしか思えない。更にそこに利権が絡むと厄介になる。人は放っておくと楽な方向に傾きがちだ。その悪い見本となるのが「『東京五輪』組織委員会ではないか?」と思う。矢鱈と部署や機関が細分化され過ぎて、結果、誰も責任を取らなくても良い仕組みになっている。これ程に「平均平等の原則」が悪用された例もないと思う。だから当初に提唱した筈の「コンパクトな五輪」を固持する責任者が居なかった。大体、建築不可能なデザインとの駄評のあるザハ・ハディド氏を推薦したのも利権だろうし、これが最初の踏み外しでもあった。構造から工法を考えなければならない自体、建築デザイナーとしては失格だし、図面に起こせないデザインなんぞ話にもなるまい。

そこで「予算が決まっているのに無視したのは誰だ」。と言う事にもなるが、そこで代表責任者なる人物が明確ならば、そのデザイン自体を採用しないだろうし、況してや競技場なれば、そのデザインとて実用重視になるのが当たり前の事でもある。都政も当時は揺らいでいたので責任者が明確に出来なかったのかも知れないが、こんな大型のプロジェクトがいい加減に進められたのも、全てが最初からデタラメだったのだろうとしか思えない。それが今や、中国武漢由来の「新型コロナウイルス」によって頓挫も視野に入れなければならない状況になっている。これがまるで罰(バチ)が当たったようにしか思えないのだ。と言うのも、もしこの五輪がコロナもなく、昨年に予定通りに開催されたとしても後から何等かの責任問題が発生されただろうから色々と後味の悪い大会として記憶に残ったと思う。猪瀬都政の後の舛添都政の時は、その上無駄な浪費も指摘されていたので、前知事の舛添要一氏は、これに関しては大口は叩けないのではあるまいか?「喉元過ぎれば」の悪い見本だ。そもそも当初の案を総崩れさせた原因を作ったのは誰なのだろう?数々の「???」ばかりだ。双方に言い分はあるだろうが、ゼネコン側の利権に負けた感もあり、専門家からは異論もあろうが、東京大会については「組織の統率」に問題があったとしか思えない。そして「これが日本人のする事か?」と失望した。今更ながらだが、やはりそれに輪を掛けた「新型コロナウイルス」は憎い。自民党の二階俊博幹事長は、殆ど細菌テロの首謀国状態の主席を国賓で迎えようとしている。本当にボケたか?

【新国立競技場】「なぜ実務家たちは、ザハ・ハディドを支持するのか」建築家・藤村龍至さんに聞く
https://www.huffingtonpost.jp/2015/09/02/ryuji-fujimura-talks-on-new-national-stadium_n_8031084.html

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